4人とも日本大学芸術学部出身。
ジャニー喜多川が趣味で野球のコーチをしていた少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」の中から、渋谷区立代々木中学校に通っていた4人を選抜し、1962年4月に結成。ジャニーズ事務所初の所属タレント(なお、当時、ジャニーズ事務所が渡辺プロダクションと提携していたので一部同事務所関連の資料にもジャニーズが記載されていることもある。このため渡辺プロダクション所属扱いとなることもあった)。
1962年8月、NHK総合『夢であいましょう』で田辺靖雄のバックとして芸能界デビュー。
1963年1月、日劇『第18回ウエスタン・カーニバル』の伊東ゆかり(当時:伊藤ゆかり)の『ロコモーション』のバックを務める。
1964年12月、『若い涙』でレコードデビュー。以後、『太陽のあいつ』や『涙くんさようなら』などの代表曲を残す。
1965年12月31日に放送された『第16回NHK紅白歌合戦』に出場し、『マック・ザ・ナイフ』という曲を披露した。同曲は1960年の紅白で雪村いづみも歌った事のあるジャズ・ナンバー。
1966年8月28日、本格的なダンスレッスンをする為に渡米。その後ワーナーブラザーズとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。プロモーションフィルムまで制作していたが、発売を中止して日本へ帰国する事となった。
尚、レコーディングした楽曲の中の一曲『Never My Love』は、元々作者である「アドリシ・ブラザーズ」が歌って発売したが全く売れずに眠っていた作品であった。ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後は、「アソシエイション」というグループによって1967年にリリースされ、今度は全米チャート第2位の大ヒットを記録している。ジャニーズ版『Never My Love』は現在も尚発売されておらず、幻の楽曲となっている。
1967年1月5日に日本へ帰国。 ジャニーズにとって最後のミュージカル『いつかどこかで~フォーリーブス物語』の公演や、シングルレコードを2枚リリースした後、同年11月20日、渋谷公会堂でのコンサートを最後に解散した。 しかし、2年後の1969年12月13日に日本劇場で行われた「オールスター・歌の祭典」にて、1日限りで再結成された。
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